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私のホームページ 『阿部りつ子の女川町(おながわ)便り』

離島、出島(いずしま)・寺間(てらま)訪問記
【巨大津波前、静かにそして限りなく美しいたたずまいを見せる寺間漁港】
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 9月29日、天気は上々で、海は穏やかでした。
知人と二人、朝8時の船で出島・寺間に向かいました。
離島とはいえ、巡航船で20分位で着く近い距離の海上に浮かぶ島で、二つの集落があります。
一つは出島(いずしま)地区、もう一つが寺間(てらま)地区です。

 冒頭の写真は寺間漁港で、3月11日に巨大津波に襲われる以前は、静かな佇まいの大変美しい港でした。
この日は別の浜、出島港に着きましたが、元の場所よりかなり西側にあり、かさ上げした仮の港でした。
予想してはいましたが上陸してみると、一面が津波で破壊されていて、改めて悔しさがこみ上げてきました。
【浜辺の建物が全て流出し、静かな海がより悲しみを誘う】
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 出島の方々は、がれきの撤去や家の片付けなどのために島に来ていて、海岸近くで、男性4人・女性2人の方から、1時間ほどお話しを伺う事ができました。

「半分位は船をなくした。新船だと三分の二の補助があるが中古ではない、何とかならないか」
「元の土地に家を建てたいが、電気や水を早く復旧して欲しい。」
「ホタテやホヤなど来年つけても、2・3年収入がないので暮らしが心配だ」
等々、切実なお話しばかりでした。
【海岸沿いのがれきは手作業で撤去。しかし重機がないとどうにもならない場所が多数ありました】
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 その後、出島18軒、寺間11軒が入居予定の高台の仮設住宅を訪問しました。
まだ半分ほどしか入っていませんでしたが、やはり要望は切実でした。
「新聞を読みたい。」
「テレビの地デジが映らない。」
「買い物が不便で、船便を午後2時・3時に変更して欲しい。」
「学校を再開しないと、子供のいる親は島に戻れない、早く方針を。」
などなど・・・・・
【がれき撤去の作業の手を休めて、私にいろいろな話しを聞かせてくれた人たち】
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 それから、寺間の別当浜に向かいました。
20軒ほど家が残っていて、その内14軒が暮らしていました。
帰りの船便が12時40分しかないので、寺間の方々とは充分なお話しをする時間がありませんでした。
半ば叱られながら、近い内の再訪を約束しました。
それにしても使いやすい船便にしなければ、と身をもって知り、出島の方達のお話しが身に染みました。
やはり、現地に行ってお話しを伺い、体験するのが大切ですね。
寺間(てらま)を中心の再訪記
【船着き場から上陸するのも大変で、おんぶをしてもらう女性】
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 10月25日、再び島を訪れる機会を得ました。
今度は、先日の知人(私の尊敬する方)と、カメラマン役を買って出てくれた男性との3人でした。
9月の時に時間がなくて十分なお話しができなかった寺間(てらま)地区の人たちと話し合うのが目的でした。
この地区には、私が町議会議員になる前に、一緒に働いていた水産加工会社時代の友人たちがいるのです。

 そして、中でも一番私を理解してくれて、島を訪れると必ず家に上げてくれていろいろな話しをしてくれた大好きなR子さんが住んでいた地区です。
 本当に、本当に悲しい出来事で今でも信じられないのですが、島での数少ない犠牲者の中にR子さんがいました。
なんで神様は理不尽な事をするのでしょうか、と、信心深くない私でも彼女の運命を嘆きましたが、彼女は帰ってくることはありませんでした。

 彼女の訃報は全島民が避難していた先で、やはり元同僚だった友人のAさんから聞きましたが、その時Aさんと抱き合い泣きました。
涙が後から後から流れ出て、止まることはありませんでした。
【ありし日のR子さん(右の腰かけている女性)。とても優しい心の綺麗な女性でした】
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 私はひとしきりR子さんの憶い出にふけりました。

しかし船便の都合で、あまり島に滞在している時間がありませんでした。
高台にあり津波からの難を逃れた家々を訪問して、前回出島(いずしま)を訪問した時に伺った要望に対する当面できる事を書いた、私の後援会発行のチラシを配布しました。
もちろん人がいれば、ちょっと長めの会話になったり、仮説住宅を回ったりしているうちに、どんどん時間が過ぎていきました。
 しかし、家々を回ると言っても、急な坂道の上り下りの連続で、けっこう体力のいる事でしたが、私のキャッチフレーズは『復興に向かって走る、走る!』でしたから、文字通り懸命に汗をかきました。
【急な坂道も何のその、私の思いを皆さんに届けたい一心でした】
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 残り時間も少なくなってきて、潮の香りのする浜辺に戻りました。
男性陣が十数人、がれき撤去の作業中でした。
ちょうどお昼時間に差し掛かり、浜辺での臨時懇談会になったのです。
「あんただけだよ、2回も島に来たのは。後は誰も来ない」
「りっちゃん、俺たちは町から見捨てられたんだ」
私の事を”りっちゃん”と親しみを込めて呼んでくれた嬉しさはありましたが、「俺たちは町から見捨てられたんだ」の言葉が、私の胸を激しく突きました。
【浜辺の懇談会。後姿の青いヤッケを着たのが私です】
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 私は、持参した前回訪問時に出島地区で聞いた要望にできる範囲で答えたチラシを配りながら、説明しましたが、やはり聞き役に回る方が多かったのです。
そして何故、島の人たちが悲しい言葉を吐いたのか考えました。
 答えは明瞭でした。
島の人たちは、ライフラインも整っていない島に戻り、重機もない中で人力で重いがれきの処理をしていたのです。
一日も早い生活再建のためです。
けれども行政は、あれこれ言っても手を差し伸べなかったのは事実なのです。
重機が一台あれば、どんなにか島の人たちの助けになった事か・・・。

 私の同行者の知人は、私に語りかけました。
「なぁ りっちゃん、島は町全体から見れば確かに人口は少ない。けれど島を町の小指と仮定してみれば、小指を怪我した時の痛みは全身を駆け巡る。それと同じで行政が手を差し伸べないのは、地方自治体としてはあってはならない事だと思うよ」。
私は、またしても胸を突かれた思いがし、「また必ず島に来なければ」と、自分自身に誓いました。


 11月5日、三たび私は島の土を踏みました。
島は私たちの町の宝物、との思いを持って・・・。

島の人たちは、私たちを笑顔で出迎えてくれました。
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