上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


私のホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』

『夫の出口の見えないトンネル』 
※全部の写真がポイントすると、コメントが表示されます。
【写真=夫が織って、ある展覧会で入賞したタペストリー『真冬の森に降り注ぐ星屑たち』】
【さをり織りの中でも難しい、多色交差を駆使したと云う夫の力作】

  【崩壊した夫の人生設計】
 2004年3月、夫が4年以上に渡る長期入院から、家に帰って来ました。
明日は次男が群馬県の、ある大企業に就職するために家を出るというタイミングで、夫は「次男と最後の夜をどうしても一緒に過ごしたい」、と言って無理をして退院をしたのです。
 通算13度目の手術後2週間という時期で、まだまだ入院加療が必要だったのに、医師を説得して半ば強引に退院して来たのです。

 夫の病名ははいろいろありますが、決定的だったのが『Failedback-Syndrome』と言う病名の、難治性躰幹機能障害によるものでした。
これは常に強烈な痛みが付いてまわり、安眠など望むべくもない大変な症状があるのです。

 そばにいる妻の私が、見ていて辛くなるほどですが、私に出来る事といったら、身の回りの事をする事と、お風呂やトイレ、そして下半身の着替えの手伝いをする事ぐらいしかありません。
しかしそれらも夫は自分で出来るだけやるように努力していて、やはり限界があるのでその時が私の出番なのです。
 
 管理者としてそれなりのポジションにありバリバリ働いていた夫が、常にある強い痛みのために働く事が敵わない、重い身体障害者になった事を受け入れる事ができずに、もがき苦しんでいるのをただ見ているだけしかできないのが、私には1番辛く悲しい事でした。

 それに子供たちに、それぞれの能力に見あったそれなりの教育を受けさせるのが、子供に恵まれた時からの夫の強い願いでした。
しかし病気前に大学に入学した長男だけは、何とか大学を卒業させましたが(もちろん長男はアルバイトをして頑張った)、下の2人の子供たちにはそれをしてやれず、夫はその事を非常に苦にしていて人に知られぬよう涙していたのを、見た事もあるのです。

 夫が自らの障害と人生設計の崩壊を、あるがままに受け入れた時には、もう2年もの歳月が流れていたのです。
その間の夫は、自らの人生の幕引きを考えた事も1度ならずあったのです。

『さをり織り』との出会い 
【写真左=夫の「個展」。個性的な作品たち。右=私の好きな作品、夫の持論「平和」がテーマ】
タペストリー中心の展示です。3万円で売れたものもありますよ。          見えにくいのですが、上から「白い鳩」「国連旗」「赤十字旗」「クジラ」「スイス国旗」と並んだ『メッセージ』です。

 そんな夫に転機が訪れたのは2006年の春でした。
石巻市議会議員選挙で、庄司よしあき市議の選挙事務所の手伝いに、夫が辛い体のはずなのに自らの意志で行ったのです。
選挙の厳しさが身に染みついている夫は、家でじっとしていて傍観できる心境ではなかったのでしょう。
 そして、選挙事務所の手伝いの中で、庄司市議夫人のお姉さんと出会ったのです。
その人は「内海幸子」さんと云う方で、NPOを運営していて『こころ・さをり』という≪障害者自立支援センター≫の所長さんでした。

 所長さんから夫の友人経由で誘われた夫は、選挙後3ヶ月ほど経った7月頃から通い始め、夫は若い障害を持った人たちとの交流で、生きる力を甦らせて行ったのです。
 幸い夫は若い人たちから受け入れられ「チューさん」と呼ばれた夫は、家の中でも目に見えて明るくなったのです。
そしてそれは私にも驚きでしたが、夫の創る≪さをり織り≫は独特で、創意工夫に満ちたものが多かったのです。

 もともと夫は器用な面があって、家の中で修理を必要とする時などには、部品が無い時でも代用できるような物を見つけて来て、加工して修理したものでした。

 そんな夫の作品を見て、内海所長さん始めスタッフの皆さんが全力で援助をしてくれ、『個展』を開催したのです。(実態は開催してもらったのです)
『さをり織り』と出会ってから、わずか1年半後の事でした。

『夫の心身の閉塞状況を打開できない私』
 
 体調を見ながら『こころ・さをり』に通って『さをり織り』を織りながら、若い人たちとの交流を楽しんでいた夫でしたが、7月末から全く行けない心身状態に陥りました。

 3月に夫は塩釜市に住むすぐ上のお姉さんと、名古屋に行って来ました。
1番上のお姉さんが、『食道癌に罹り、かなり重い症状だと報せて来たからです。
 その時には『愛知県がんセンター』の治療が功を奏して、大事に至らなかったので、夫は安堵して帰って来ました。

 因みに夫には姉が3人いて夫は男1人の末っ子ですが、夫はそれぞれ1番上の姉を「姉ちゃん」、2番目の姉を「○○ちゃん」(既に他界)、そして塩釜に住むすぐ上の姉を「○○○姉」と呼び分けているので、以下はその通りに書きます。

 『梅雨明け宣言』もない7月の暑い日の事、名古屋から1本の電話が入りました。
名古屋の「姉ちゃん」の具合がいよいよいけなくなってきて、『がんセンター』から終末期緩和センターの『名古屋ハートセンター』に転院した、との報せでした。
 夫は塩釜の「○○○姉]と連絡をしょっちゅう取り、「今、行かなければ一生後悔するぞ」との言葉で、私を含めた3人で急きょ名古屋セントレア行きのANAの機上の人となったのです。
ANAの機内乗務員も地上要員も身障者へのサービス満点で感激したセントレア空港から名古屋駅に向かう特急myuw-sky号=これも身障者に優しかったですよ
 【写真=ANA機。クルーが夫をおんぶし驚く。右のMEITETSUミュースカイも優しかった】

 名古屋駅で落ち会った娘と4人で、『ハートセンター』の「姉ちゃん」と会いました。
一見すると顔色は比較的良かったのですが、腕という腕には無数の注射痕があり「留置器具」が付いたままなので、治療の大変さが理解できました。
 午前10時から午後4時までいて、話しが尽きる事はありませんでしたが、しかし無情にも帰りの飛行機のフライト時間が迫ってきました。

 「○○○姉]が「また来てみるからね」と言った時、「姉ちゃん」の顔が一瞬哀しそうに歪みましたが、次の瞬間笑顔に戻り「うん、今日はありがとう」と言ったのですが、その心の内を推測すれば「これが最後だわ」と自分に言い聞かせていたように想えたのです。
万感こもった言葉とは、こう言う事なのか、と私は悟ったのです。

 私たちはタクシーに乗り込み病院を出ましたが、「姉ちゃん」はタクシーが見えなくなるまで手を振っていて、振り返りながら見ていた私は、眼頭が熱くなるのを止める事ができませんでした。
 そしてこれが優しかった「姉ちゃん」を見た最後になりました。
いつも「りっちゃん、すまないねぇ」が口癖の本当に心根の優しい「姉ちゃん」だったのです。

塩釜の姉と娘も一緒に、夫が写す【写真=大切な人達で、掲載にためらい。小さくして敢えて載せます。左端が私。手前が「姉ちゃん」】

 家に帰って来た夫は、その疲れから毎日のように終日ぐったりしていました。
8月4日になり、「今日は姉ちゃんの65回目の誕生日だ。年金をもらえるのを楽しみにしているのになぁ」と、独り言ともつかぬ低い言葉で言ったのです。

 翌5日、私は出掛けていましたが、夫が珍しい事に携帯電話に連絡を寄こしました。
「今、○○子からメールが入った。姉ちゃんが逝ったそうだ、すぐ戻って来てくれ」。
 ○○子は「姉ちゃん」の娘で、夫が目に入れても痛くないほど可愛がっている姪ですが、彼女のメールの文面は「母さんが大量の血を吐いて死んだ、私も間に合わなかった]。

 見舞ってちょうど1週間後の死でした。
夫の行動は素早く(と言ってもパソコンと電話だけですが)ネットで飛行機のチケットを取り、岐阜の娘に葬儀に参列するよう手配して、息子たちには弔電を打つよう指示していました。
そして塩釜の「○○○姉]とも連絡がとれ、夫は自らの体に鞭打って、また機上の人になりました。

 夫の心情は聞いていないので解りませんが、推し量る事はできます。
一泊二日の名古屋滞在中の出来事が、夫にある種の極めて強い衝撃を与えていましたが、ここに書く訳にはいきません。
 ただ、葬儀・火葬が済んだ後の夫の顔を、どういった形容で表現すればいいのか解りませんが、ただ心の中では大変な葛藤があったのだけは間違いありません。

 1週間に2回(一泊三日)の名古屋往復が夫の体に与えたダメージはかなり深刻でしたが、それ以上に心理的な負担が大きかったように思います。

『夫の復活』
            【夫が織った最新のマフラーで、夫の願い(虹=平和)がモチーフ。】

                    夫が出来あがったばかりのマフラーの写真を、急に撮ると言ったのですが、普段着の私は抵抗しましたが、結局押し切られました。
 
 『夫のさまざまな不調の連続』に私はいささか鈍感でした。
名古屋から戻って来てからの夫の体の回復には、3週間から1ヶ月くらいかな?と考えていた私は、夫の体の大変さの本質を忘れていた部分がありました。
「甘かった]のです私が・・・・解っていながら、です。

 1週間も2週間もかかって1つの症状が良くなった、と思ったら次の不調が顕れるといった連続で、夫は精神的にも追い詰められていったのです。
「俺なんか何の価値もない、×××の方が良いに決まってる」とまで、言い出す始末でした。
 夫のプライドとプライバシーの問題があるので詳しくは書けませんが・・・・。
ただ、内科的な病気の痛みと苦しみが、難治性躰幹機能障害のもたらす苦痛と重なった時の夫の苦しみ方は、傍で見ているだけの私も、精神的に苦しみ切なくなるのです。

『夫が急変した理由』
 私の本心を言えば、「夫はこのまま、『さをり織り』を辞めるかもしれないな」と思っていました。
事実たまに夫は「おれが辞めたらみんなに悪いかな?」とか「体の辛さを我慢するのが、だんだん厳しくなって来ている」とか、否定的な言葉を言う事が多くなっていたのです。
「妻のくせに・・!」と叱られかも知れませんが、私には「どうする事も I can not」(古いギャグですよ)でした。

やっぱりモデルが問題でしょうか?       夫のためなら恥も何のその、です!       精いっぱいの笑顔ですが?
 【写真上=復活後のマフラーと夫の織り布をスッタフが縫製したポンチョ風?上着】

 ところが10月のある日、唐突に夫が「そろそろ『こころ』に行くぞ」と言ったので、私は正直驚きました。
聞けば「褥瘡も大分良くなって来て、車椅子にある程度座って居られようになったし、だいたいこのまま朽ち果てたくないからなあ」が、大きな理由だったみたいです。
「お前のいない間、ロクな事しか考えていないし、結局お前に迷惑をかけるからな。」とも聞き、私は心がすーっと軽くなるのを感じました。

 この間私は出張が多くて、夫を独りにした夜が多かったのです。
そんな時、出張先のホテルのベッドに入って考えるのは夫の事で、「ちゃんと食事を摂ったかしら?」「転んで怪我をしていないかしら?」(以前、転んで肋骨を折った事があるのです)、「去年みたいに救急車を呼んで入院していないかしら?」と、あまり良い事は思い浮かばないのです。
ですから、そんな時は家にいる夫に電話をして、安否を確認しないと安心できませんでした。

 その夫が以前のように前向きになったのですから、私が喜ばないはずがありません。
「前みたいに、あなたの織ったものが売れたら、そのお金を貯めて○○○(娘)を呼んだら?」と言ったら、夫は無言でニヤッと笑ったのです。

 夫は子供たちが一番の気がかりであり、その幸福を何より望んでいるのです。
「自分が老いたら、子供の世話にならないようにする」、が若い頃からの口癖で、子供たちには「親に縛られず大きく飛んで行け」と教え込んで来た夫です。
それなのに妻には迷惑をかけているくせに、とはもちろん思いません。

 私は家に閉じこもらない夫でいてくれれば、それだけで良いのです。
『こころ・さをり』の皆さん、よろしくね。

『さをり織り』の認知度があがり、多くの人がその良さを知ってくれますように!
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://rikkotan.blog14.fc2.com/tb.php/5-082fdc4d
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。