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私のホームページ 『阿部りつ子の女川町(おながわ)便り』

陸の孤島の食糧難を、我が集落住民の善意が救う
翌朝(3.12)、我が家の前に漂着した石巻市側のがれき(家の屋根が見えます)
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 前夕の悪夢から一夜が明け、我が家の前の万石浦針浜護岸は、対岸の石巻市渡波(わたのは)から流れて来た漂流物が、海底までぎっしりでした。
さまざまなものが流れ着いて来ました。
 家が4軒流れて来ましたが、1軒を除き途中で水没しました。
また、長さ5m位の太い杉の木が何本も流れて来ましたが、私(夫)の知人の材木店から流れ着いたものと想われ、目頭が熱くなりました。
 タイヤ・コンテナ・養殖いかだのウキ、壊れた家の残骸は数知れず、洗面器やザル、位牌や逃げる時に濡れないようビニール袋に入れたのでしょうか預金通帳や印鑑等々、ありとあらゆる生活臭のあるものも沢山ありました。
 私は、言いようの無い感覚に襲われ、多く住んでいる友人・恩人・知人の安否が心配でしたが、携帯電話も停電で充電できず使えないので、確かめる術がありませんでした。
 しかし諦めきれずに13日の夕方、夫に同乗してもらい、石巻方面に向かいましたが、途中で冠水箇所が何ヶ所もあり、諦めて帰って来ました。
写真左側の山の下付近の被害がひどかった模様です
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 ところで私は翌日(12日)から、夜明け直後の午前6時頃に町に入り、住民の安否の確認に歩きました。
自動車のガソリンもひっ迫していたので、片道2㌔から4㌔はもちろん自分の足が頼りでした。
 親しくしていた方々の多くと連絡が取れず、焦りと厭な予感も覚えました。
道路の確保がまだだったので、がれきの上を慎重に伝い歩きながらでした。
生き残った方々からは、奇跡的な生還やその逆の話しも伺ったりと、胸がつぶれる思いのお話しも沢山伺いました。
 
 小高い場所にある役場庁舎は屋上ぎりぎりまで冠水し、廃墟と化していましたので、全く使い物にはなりませんでした。
主な避難所には、役場職員がそれぞれ分担して住民のお世話に忙殺されていましたが、各避難所間の通信手段もなく、そこに配置された職員自ら判断せざるを得ない状況で、役場としての整合性は望むべきもありませんでした。
もちろん外部への連絡もほとんどできない、町の様子も把握できない陸の孤島状態が3日間続きました。
21世紀の日本で情報化社会と喧伝されても、一旦電気の供給が止まれば何も出来ない脆弱さが露呈した日々でした。

つまり、女川町民は総合体育館など各所に避難したものの、食料ひとつない過酷な状況に置かれていたのです=我が集落の人たちは密かな誇り
 それを知った私は、私の住む針浜集落(はりのはま)の約40戸の家々を廻り、米や調味料などの提供を求めました。
行った家行った家どの家でも、私の説明するその現状を知ると、家族用に備蓄していた玄米や精米、味噌醤油などを快く出してくれたのです。
それこそ政治的立場を超えて、人道的援助に集落の家庭全部が応じてくれたのです。
 私の友人のTさんは、夫と同級生の旦那さんを大分前に病気で亡くして大変なはずなのに、私の話しに涙を浮かべながら、ありったけの米を出してくれました。
「この事態はいつまで続くか解からないから無理しないで」と私が言っても、「いいのよ、家には麺類が多少はあるから」と彼女は私に半ば強引に手渡してくれました。

 今回の大震災(巨大津波)では、辛く悲しい事ばかりでしたが、この時ばかりは、私は私の住む集落の人たちを本当に心優しい素晴らしい人たちだと誇りに思いました。
しかも、私のやっている事に、集落のY君とH君の二人が率先して手伝ってくれたのです。
あれから110日になりますが、想い出す度、うれし涙が込み上げてきます。

 私と手伝ってくれた二人で集めたその量は、総合体育館に避難していた2000人余りの人たちが一日喰いつなぐには、ぎりぎりだったでしょう。
それでも、ひもじさが募るぎりぎりの中での支援米等は、間違いなく自衛隊による救援物資以前の事なので、それを知らない町民の皆さんが多いとしても、誇りと満足感でいっぱいです。

3月14日、空輸され避難所に貼られた新聞を喰い入るように読む避難者
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 その時、町の事務方のトップ(夫の友人)に話しを伺うと「役場職員は3日間、何も口にしていないでがんばっている」という聞くも辛いものでした。
翌朝早く、災害対策本部で食事も摂れない職員方に、おにぎりを差し入れましたが、全員に行き渡ったかは知りませんが、少しでも町民のために働いてもらいたい一心でした。

 4日目にようやく自衛隊が入り、県とも連絡とれるようになりましたが、その時のNHKラジオ全国ニュースのトップで(停電中でテレビの視聴は不可能)、『宮城県女川町では、町民の半分、約5000人の安否が解からない』という衝撃的なものでした。
それほど、町の機能が失われていたのです。
町の危機管理の有り方の分散と整合性の有り方を、今回の大震災が指針を示したのだと思っています。
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