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私のホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』

 
『~終わりの章~』

 毎日が慌ただしく、そして忙しく流れて行く私の身辺。
昨日の夜更けに、この文章を書いていて、日中の疲労からか睡魔に勝てなかった私は、書くのを途中でやめ、眠りに就きました。
思えば、母の死がつい昨日の事の出来事に感じられるけど、確実に時は流れて早一ヵ月も経っているのですね。

「母の事を想い、いつまでも母の死を引きずっていてはならないわ」。
「もちろんよ、だから毎日忙しく働いているじゃない」
「だからと言って、母の死の原因を作った真相は、突き止めなければならないのよ」
「解ってますって。今はまだそのタイミングじゃないだけ」

そう、母は本当は亡くなってはいけなかったのです。
母の死は、普通の原因で死に至った訳ではありませんが、ここに書くのは早すぎます。
その事に関係する真相が明らかになった時に、書こうと思っています。
それが母を供養する一番のものになるでしょう。
【母の納骨に、お墓に行けなかった夫が撮ったお寺から観た雪化粧の故郷。観ると涙が滲みます】
furusato-tera-kara-100110.jpg

 1月7日、木曜日、母の入棺。
布団に居た時はただ普通の眠りに就いていた、そんな感じがしないでもなかったのですが、いざ棺に入ってみると母の死が実感として身に迫ってきました。
 棺に母を入れる前に、ねえさん(実家の義姉)と娘である姉や私や孫たちで、母の旅立ちの準備をしました。
孫たちは人生経験が浅いので、”おばあちゃん”の体に触れる事に抵抗があったようで、尻込みしていっこうにはかどりません。
 そこで夫が孫たち(夫にとっては甥と姪)に「お前たちを可愛がってくれたばあちゃんだぞ、死んだばあちゃんに触れる事は不浄な事ではなく、尊い行為なんだぞ」と諭して、何とか母の旅立ちの衣装替えが出来たのです。
 
 8日、金曜日、火葬。
この日は比較的暖かい日になりましたが、私は朝から特別な感情に覆われていました。
この日が実質的な母との最後の日になると思ったからでしょうか、感情が乱れていました。
 不思議なもので感情的に乱れていたからなのか、比較的新しい火葬場で母を見送ってから私は不謹慎な事を想い出していたのです。

 去年の夏(8月)夫の長姉が亡くなりました。
名古屋市の隣町のK町に住んでいた長姉の火葬に参列した私と夫は、その火葬場の余りの古さに驚き呆れたのです。
まるで戦後すぐ建てられたようなバラック同然で、冷暖房装置もない狭くて汚い遺族控え室で、あまりの暑さに流れる汗を拭きながら、K町のHさんという女性の町議会議員さんと話していました。
 H議員さんは「驚いたでしょう?」と、私たちの心を見抜いたかのように話し出しました。
「こんなに狭くて汚い火葬場は、全国どこにも無いかも知れません。K町の人達も火葬場を新しくしなければって思っているのです。けれど具体的な話しになると、利害が絡んで巧く進まないのですよ」と、我が事のように恐縮していたのです。

【(左=火葬場にて)両端が私と私の長男で、中3人は直系の孫家族。(右)火葬前夜に焼香する私の姉】
     kouki-100108-kasou (4)               futatugi-100107 (10)
 「それに比べたら一関市のは、立派なものだわ」と心の中で呟いていた私の耳に、葬儀社の係り員が告げている声が響きました。
 そう、響いてきたのです、「焼きあがりは1時間半後になりますので、ご遺族の方々は・・・・・」と。
「コンサートホールじゃあるまいし、何でこんなに音響の良い火葬場が必要な訳?」。
さっき褒めた一関市の火葬場を、瞬時に貶(けな)している私がいたのです。
やっぱり心が乱れていたせいかしら?

 9日、土曜日、通夜。
「明日、お葬式だよ母ちゃん、早いね。]
昨日荼毘にふされ事実上の最後の日、と思っていたにも関わらず、通夜には悲しみが舞い戻って来ていたのです。
 母の体がもう存在しないのは、誰に言われなくたって理解しているのです。
でも感情はそれをまだ認めていません。

 身障者の夫は「俺は何もできないから、深夜の線香守くらいなら何とかな」と自嘲気味に言っていたけれど、その言葉通りやり抜いたのです。
 いくら体に合った車椅子だとは言え、同じ姿勢で何日もいるなんて辛いはずなのに・・・
「いやモルヒネ以上に効くものが幾らかあったからな」だって・・・・・!?

 10日、日曜日、葬儀・告別式。
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「母ちゃん、覚えている?少しだけ認知が出て来たけど覚えているよね、そうだよ母ちゃん、和尚さんの事。じゃ同級生だってことは?あぁあ残念、でも直ぐ想い出すから大丈夫だよ」

 一関の実家の菩提寺は曹洞宗で女川町の我が家も同じで、私には理解しやすい葬儀でした。
でもご住職は84歳で現役ですから、驚きです。
 ですから母に”引導を渡す”場面でははらはらしました。
というのも同級生という事で、ご住職の真心が入りすぎたものか、ふらふらよろめいたのです。
何事もなく葬儀は終わりましたが、ご住職の読む御経が長かったのも、同級生という”えにし(縁)”がそうさせたものと思っています。

母の死から葬儀までの長い期間お世話になった親戚も帰り、静かな夜が戻りました。

 11日、月曜日、初七日。
朝7時、近在に住む親戚と一緒に墓参りに行くのが、一関の私の実家の地区の風習なのです。
これは100ヶ日まで、忌日(初七日、2・7日、3・7日~・・・・~)毎に行われます
 お墓参りに同行した親戚は、自宅に寄らない風習です。
姉と私は実家を離れて、もう35年以上になりますから、そんな風習があったなんて記憶にもありません。

 残った者は母の息子・娘とその家族だけの静かな初七日。
静かな時間が流れ、会話も多くはなかったが、それでもそれぞれの者の胸の中で生きている母がいたのです。
 たまに会話が出ると、母の事が多くなる。
ほら、みんな心の中で想っているんだね、私だけじゃない、って、家族だもの当たり前だよね。

【(左)母直系の子孫と連れあい。(右)母の娘たちと息子】
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「ねぇ、今度こうしてみんなで会う時はめでたい席にしたいね」
「そうそう、最初は誰んちかな?律子のとこ?」
と姉が私に鉾を向けてきました。
「う~ん、うちは3人とも駄目かも?ねえちゃんちの○○ちゃんは?」
すかさず切り返した私に、当の本人が答えたのです。
「俺なんかまだまだだなぁ、▽▽は?」
またしても私が標的に。
「▽▽は素直にお嫁さんに行くタイプじゃないね、第一だんなが手放さないかも?」

 他愛の無い会話が済んで、姉家族が帰る時間が来ました。
やぱり別れは寂しい。

 姉たち家族の乗った車を見送りながら、私は心の中で母に語りかけていたのです。
「母ちゃん、知ってた?お通夜の晩なんか孫全員揃って朝まで騒いでいたんだよ、とっても仲良くさ。うちのだんなも前よりも姉ちゃんのだんなととっても仲良くなったしね。母ちゃんが亡くなったのは、とってもとっても辛いけど、きょうだいの絆も孫たちの絆も、以前よりずっとずっと強くなったんだよ。みんな母ちゃんが残してくれた宝物だよ」

 姉家族の車が見えなくなり、居間に戻り私は言いました。
「あにき、私たちもそろそろ帰るね。ねえさんお世話になりました。これからもあにきをお願いね」
「何言ってんの、また来てね」

 助手席の夫が、あにき夫婦に手を振っています。
実家の家から公道に続く道の両端の残雪が、キラキラ陽の光を弾いていて私はまぶしくて思わず目を細めたのです。
1月11日の昼下がりの事でした。
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