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私のホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』

 2010年元日の午前11時頃。
私は長男の運転する車の助手席で、母の入院する一関市の病院に向かっていたのです。
夫は体調が悪く、家で伏せっていました。
 岩手県内に入ると、正に雪国の風情があり地吹雪模様で、もし私の運転だったら途中で身動きが取れなくなっていたでしょう。
私の生まれ故郷なのに、正月そうそう面喰らいました。
 育った期間の2倍もの歳月を、東北では珍しく比較的温暖な女川町という、黒潮が流れる北端の太平洋に面した町で暮らしてきた証拠なのだと思ったら、私にしては珍しく感傷的になっていました。

【写真=母が入院していた岩手県立病院(一関市)】
iwai-byouin.jpg

【写真=兄姉たちと(後ろの赤いコートが私)病院にて】
s-DSCF2033.jpg

 私たちきょうだいは昨年末に連絡を取り合い、一関市の長男、埼玉県の姉、東京の次兄、宮城県の私の4人それぞれが、母の入院している病院で落ち合う事にしていました。
 こうしてきょうだい全員が揃うのは父が亡くなって以来なので、12年振りになるのでした。
新年の挨拶もそこそこに私たちは、母の待つ(多分)病室に入りました。
 母は以前と同じようにまっ白いシーツにくるまれて、まるでお人形さんのように横たわっていました。
もちろん私たちが来た事など、知る由もありません。

 何も話さない母の顔をじっと見つめていたら、知らず知らずに目頭が熱くなってきました。
昨年の下旬に主治医が沈痛な表情で、人口呼吸器を外すことを告げて以来、母は絶望的と言われていた自発呼吸を取り戻したのです。
 しかしその余りに微弱な自発呼吸音を、私たちきょうだいは聞き取れませんでした。
そんな状態で母は頑張り続け、84回目の新年を迎えたのです。
まるで私たちきょうだいに迷惑をかけないようにと、気遣ったようにです。

長い時間母と対面していたように思いましたが、病室を出てから時計を見ると、そんなに長い時間病室に居たわけでは無い事に気づいたのです。
 私たちきょうだいは広い家族面会室に移り、今後の事について深刻な話し合いをしました。
ですがその内容をここに書く事はできませんし、誰かに軽々に話せる性質のものではありません。
ただ母が不憫でならないのは、まだまだ生きていられたに違いないと思えるし、家族の誰もがそう思っていたからです。

 母は12月15日に通っていたディサービスセンターの昼食時に、職員が目を離した数分間に食べ物を喉に詰まらせる事故にみまわれ窒息しました。
 母と長年同居して献身的に世話を焼いてきた義姉(長男の奥さま)のお気持ちを想うと、たまらなく辛いのです。
あの朝、迎えに来た施設の職員に、「いつもと様子が違うから気を付けて下さい」と注意を喚起していたのですから。
母に対する愛情ある洞察力は、長男でさえ足元にも及ばないのは、私でなくとも親族であれば誰でも容易に理解できるのです。

【写真=後列右の青年が私の長男です】
s-DSCF2027.jpg

 しかし私は不思議に思っている事があるのです。
それは写真の事ですが、正確に言えば被写体である私たち自身の事なのです。
 多めの写真をこの日に撮りましたが、きょうだいは全員どこかの場面で、笑顔を見せているのです。
母の重篤な状態を考えれば、いくらお正月だからと言っても、子供として余りに不謹慎ではないのか、と我ながら想うのです。

 でも皆さんは覚えが無いでしょうか、例えば事故現場や災害現場をテレビが中継していて、目撃者や時には当事者がインタビューを受けている場面を。
 日本人の特性なのでしょうか、けっこう笑顔でお話しする方が多いんですよね。
でも私なりに解釈すれば、自己弁護が入るかも知れませんが、多分心の中が引き攣って(ひきつって)いる現れだと想うのです。
つまり内面の引き攣りが顔の表情まで引き攣らせ、それが他者にはあたかも笑っているように見えるのではないのでしょうか? 

 母の話しに戻ります。
神は新年を迎えたこの日から、母の命のカウントダウンを残酷に、そして冷徹に始めたのです。
私たちにとってこの上ない、辛く悲しく長い日々が始まったのです。
 私は母の娘として十分な親孝行をしてきた記憶の無い、親不孝者を自任しています。
しかし母は末娘の私に、十二分過ぎるほどの愛情を注いでくれた最大の恩人であり最愛の人なのです。
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